塩素の味がする。
都会の水道水に顔をしかめながら、私はコップを置いた。
無意識の内に私は、溜息をしていた。自分でも、またカヨ、と思ってしまう程ここの所ずっと溜息ばかりついている。
原因はもう分かっていた。だけど、それを解決する見立ては無かった。
いつまで経っても忘れられぬことは無い。あの白い肌、サラサラした髪、優しそうな顔立ち。
全ては私の心を掴んで離さなかった。
もう一度、喉を潤すように、私自身の気持ちをも飲み込むように蛇口を捻り水道水を再びコップに注ぐ。
塩素の匂いが鼻を刺した。その匂いが、あの市民プールの脱衣室での彼女の姿をフラッシュバックさせる。
そして私はもう一度、溜息をついた。
七月二十五日 終業式にて
今まで気が付かなかったものの、一度知ってしまえばよく見かけるものなんダナ、と私は思った。
朝の空気の中明日から夏休みという事実に皆が浮き足立っている、終業式の朝。校門前で制服に身を包んだサーニャを見かけて私はそう思った。
私は彼女に声をかけることなく、二年生の昇降口へと向かう。
一年生と二年生の昇降口は別で、それは単にこの学校の生徒数が多いからだろうと私は思っている。
上履きに履き替えていると、宮藤とリーネに声をかけられた。
「おう、オハヨ。ペリーヌは一緒じゃないのカ?」
「あ、途中までは一緒だったんだけど。なんか、大学生の知り合いを見かけたらしくて、そっちの方に走っていっちゃいました」
落ち着きのあるペリーヌが、走って会いに行く相手・・・。
「ペリーヌに大学生の知り合いがいることに驚きダナ」
「フェンシングの、先輩とかかなぁ?」
ペリーヌはフェンシングを習っている。リーネは可能性の一つとしてそれを踏まえてそう言った。
学校にはフェンシング部などあるわけが無いので、市内のフェンシングを教えている教室に通っていた。そこには小学生から社会人まで通っているため、ペリーヌには意外と知り合いが多いのだ。
「多分そうだろうナ。今日は午前授業ダロ?終わったらカラオケでも行こうぜ」
私は自分達の教室の戸を開けながらそう提案した、教室には半分くらいの生徒が既に着席していて、私たちはクラスメイトに挨拶を交わしながら自身の席に着席した。
「いいですね。リーネちゃんも行く?」
「うん、いいよ。ペリーヌさんも行くかなぁ?」
「んー、どうだろうナ。生真面目なアイツの事だろうからサボることはないし、来たら聞いてみるカ」
結局ペリーヌは遅刻ギリギリの時間に登校した。蒸し暑くなった体育館でダルイ校長の話を聞きながら、ペリーヌに小声でカラオケの件を聞いてみると快諾した。
およそ一時間半にも及ぶ終業式が終わり、私たちは体育館から自分達の教室へ向かっている時だった。
私は体育館で、どうやら自分のクラスと離れたのであろうか、キョロキョロと周りを不安げに見渡すサーニャを見かけた。
声をかけるのも癪――というか、何か恥ずかしい――だったが私は宮藤たちから離れてサーニャの元へと向かった。
「オイ、どうしたんだ?」
声をかけると、一瞬驚いたように振り向いたが私の姿を確認すると安堵したように笑顔を見せた。
「あ、エイラ、さん。・・・ああ、エイラ先輩って呼ばなきゃですね。ごめんなさい」
「イーヨ。別に私は体育会系じゃねーシ。それよりもサ、クラスの奴とはぐれちゃったのカ?」
「終業式の途中で貧血で倒れたんです。それで、具合が良くなったから戻ってきたら、皆いなくて」
「ああ、一年はもう教室戻ったゾ。サーニャは何組ナンダ?」
私はサーニャの敬語にくすぐったさを覚えながらも、どこかサーニャと居る事に安堵を感じていた。
「三組…です」
「そっか。ルッキーニの奴と同じクラスだったナ。ほら、行くぞ」
私はサーニャに手を差し伸べると、サーニャは困り顔で私を見た。私は少し照れながらも言葉を続ける。
「ひ、貧血で倒れたんダロ?ま、また倒れると危ないから、教室まで送っていってやるヨ」
サーニャの小さい手を私は、もうどうにでもなれ、なんて思いながら握る。多分顔はとても紅潮しているだろう。
サーニャの手は私の手の中にすっぽりと収まって、熱を帯びていた。ぷにぷにと、気持ちの良い感触が肌を通して伝わる。
「あ…ありがとう」
サーニャも、恥ずかしそうに顔を赤らめるが嫌そうな素振りは見せないので安心した。私は何を話せば良いのか分からなく無言の時間だけが続いたが、それは苦痛ではなかった。サーニャと一緒にいるということだけが、嬉しくて、握った手の感触を意識する度に私の心臓は跳ねるのだった。
「ホラ、着いたゾ」
一年三組の教室前に着くとまだ担任が来ていないのか教室は騒がしかった。サーニャは短く礼を言って頭を下げると教室の中へと入っていった。
「全くなんですの?あれ」
ペリーヌは怪訝そうに私を見るが、私は先ほどのことを思い出していたので無視をした。
HRも終わり、クラスメイトも皆足早に帰る中私達は何処のカラオケに行くかを話し合っている最中であった。
「うへへ…」
「じゅ、重症ですね」
おっと、思わず笑い声が出てしまったようだ。リーネは心配そうに私の顔を覗き込んだ。
「それにしても、サーニャの手柔らかかったなぁ…」
「エイラさん、サーニャちゃんに会ったの?」
「え?な、何で知ってんダヨ、お前」
「口に出てましたわよ、考え」
「う、ウルセー!何処のカラオケ行くかさっさと決めるゾ!」
私は照れ隠しに声を荒げる。ペリーヌは呆れたような視線で私を見るが、私は耐え切れなくなり視線を逸らした。
すると、宮藤がとんでもない――私にとっては、だが――をした。
「そうだ、ルッキーニちゃんとサーニャちゃんも誘おうよ!」
「な、何言ってるんだよ、お前!」
「だって、大人数の方が楽しいよ、ねリーネちゃん」
「う、うん…。芳佳ちゃんが言うんだったら」
人前で歌うことが苦手なリーネをまず説得にかかったか…、私は仕方なくペリーヌに同意を求めるが、あっさり「私はどちらでも結構ですわ」と言い放した。
「それじゃ、決定ですね!!じゃあ、ルッキーニちゃんにメールしてみる!」
結局、私は宮藤を止めることが出来ず、同じく暇を持て余していたらしいルッキーニとサーニャと合流して私たちは駅前のカラオケ店へと足を運ぶことになった。
私は、どんよりと重い足取りで皆の後ろをついていっていたが、別にサーニャと居ることが嫌なわけじゃない。
しかし、心の準備がまだ整っていなかったのだ。
それに一番重要な案件もまだ片付いていない。
「さ、サーニャの前で何歌えばいいんヨ…」
こんなに不安と緊張が入り混じったカラオケなんて、初めてダゾ。
だなんて心の中で愚痴りながら、私とサーニャの初めてのカラオケは始まったのだった。
ちょっと短めパラレルssです。サーニャがちょっとキャラ違うかも
カラオケ編は後日アップ予定です